すべての言葉が自分の意見を伝えるためにそこに置かれているわけではない

結局わたしは、ひたすら自分のために書くのが好きなだけなのかもしれない。熱い志を伝えるインフルエンサーではないし、読者に寄り添った解説文を書き続けるライターでもない。読んだ人にこういう気持ちになってほしい!みたいなのは、正直言って、ない。というかそんなのコントロール不可じゃない?

 

現にこの文章だって、わたしのそれと近しい関心や感性を持つひとが読んだら共感してちょびっと嬉しくなってくれるかもしれない。

わたしとは違う考えの人が読んだら、んなわけないだろw とか思いながら、ご自身の考えの偏りや心情に気づく踏み台として、わたしの書いたものを使ってくれるかもしれない。(ありがたい)

あるいは50代、60代くらいのマダムが読んだら、これを書いてるお嬢さんはさておき、うちの娘は元気かしらね、ちょっと電話でもかけようかしらね、とか思うかもしれない。あるいは...

 

 

わたしにとって何かを書くことは、誰かを説得する材料を用意することとは全然違う行為だ。誰かの想いを変えてやるぞ、とかいうのとも違う。

ただ、自分が感じたことを集めてまとめて捏ねて、言葉に変換している、ただそれだけ。それが楽しいから、やっているだけ。

 

こういう考え方をしている限り、ライターとかは務まらないのかもしれないなぁ。文章の構造とか本の構成を考えるのも好きだけど、油断すると「読む人が分かりやすいであろう構造」よりも「理屈抜きで自分が気持ちいい構造」を優先してしまうというきらいがあるし。

 

わたしみたいなのは、こうやってひたすら、書きたいから書きたいように書くっていうのを続けていくのが、一番幸せなのかもしれない。読んでほしいから書いてるわけじゃないんだ。書きたいだけ、つくりたいだけなんだ。

 

 

ついでに考えると、ライターだけじゃなく編集者やディレクターなんかもあんまり向いていないのでは?って話になってくる。まあ、そりゃそうか。この文章の初っ端で「読み手の受け取り方なんて知らん」と言い切っているんだし。

言葉という媒体を使って自分が意図した通りに他人へ情報を伝える試みはどれ一つとして同じものは無く、大変面白い。だからといって、すべての言葉が自分の意見を伝えるためにそこに置かれているわけではないのだ。

置いて組み替えて向きを変えていじる、その作業を楽しむために生み出される言葉だってあるのだ。ここに書いてある1000字くらいの言葉たちが、まさにそれ。

 

書きたいから書いてるだけでお金になったりしないかなぁ。いつか何かの拍子に、そんな風になったらいいなぁ。

 

とはいえ食っていかねばならない。書きたいように書くことを通じて言葉を操作する腕を磨き、それを活用して誰かの意見を伝えることの手伝いをする、そしてお礼をいただくというやり方なら、なんとか出来るかな?仕方ないので、しばらくは、そういう気持ちで、文書作りの仕事をやってみようと思う。